順徳上皇の生涯
建久8年(1197)
後鳥羽上皇の第3皇子として生まれる。名は守成(もりなり)のち佐渡院とも称される。母は重子(のちの修明門院)、乳母は又従兄弟の藤原憲子である。
正治元年(1199)
幼少期から利発であり母親が後鳥羽上皇からの殊寵を得ていたため親王となり、翌年には4歳にして皇太弟に立てられる。
承元4年(1210)
後鳥羽上皇の命によって土御門天皇から位を譲られ、わずか14歳で第84代天皇となる。
政務にあずからない順徳天皇は有職故実(朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故)の研究や歌論・詩歌・管弦の奥儀の習得に傾倒したとされる。承久3年までには、宮中の行事・故実・制度などを漢文で解説した「禁秘抄」を著した。これには鎌倉幕府に対抗して皇威を盛んにするためにも宮廷の行事・儀式・政務などの実際を明確にするという目的があったとされる。
和歌への精進は、父の強い影響に発したとされ早くから藤原家隆らとともに歌会に参加し歌才を磨いた。
外祖父・高倉範季は半官(源義経)贔屓で知られている人物であり、外祖母側近の平教子は清盛の異母弟・平教盛の娘であり幼児より反幕府的な環境にあったといえる。こうした環境や自身の性格から、後鳥羽上皇の倒幕計画には熱心に参与した。
承久3年(1221)
4月 子・懐成に位を譲り、自らは上皇の立場に退いて討幕に備える。
後鳥羽上皇は執権・北条義時追討の宣旨を発して挙兵する。しかし上皇方の予想を完全に裏切って東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条義時に率いられた幕府軍が大挙京都に攻め上がり結果追討令からわずか1か月後には京都は幕府軍に占領され討伐は失敗に終わる。
後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流され、順徳上皇もまた佐渡へと配流の身になる。
仁治3年(1241)
9月 在島21年、都への帰還を望みながらその希望が叶わないことに絶望し46歳で崩御した。
建長元年(1249)
7月 「順徳院」と追号される。
佐渡の環境は厳しいものであったとされていますが、和歌や学問に励むことが心の支えだったようで「順徳院御集」や「八雲御抄」などの作品を残されました。
百人一首100番
「百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の
しのぶにもなほあまりある 昔なりけり」
20歳の頃、鎌倉幕府との対立が深まった際、世の移り変わりの衰退への気持ちが詠まれた
都忘れの菊
「いかにして契りおきけむ白菊を
都忘れと名づくるも憂し」
忘れんとしても忘れることのできない遠い都の空をしのばれ、名もない小菊に想いを寄せられた
キク科の多年草である深山嫁菜(ミヤマヨメナ)の別名
配流され御所周辺に植えていたこの花を見て詠まれた
隠岐をしのびて
「いざさらば磯打つ波に言問はむ
おきの方には何事かある」
隠岐の島に配流された後鳥羽上皇をおしのびになられ詠まれた
辞世の句
「思いきや雲の上をば余所に見て
真野の入り江に朽ち果てむとは」
都と天皇の位を失った悲しみと、遠い島で朽ち果てる運命を嘆いた